ニュージーランドでの生活

クライストチャーチ(南極に行く船が最後に給油する地、ニュージーランド)に永住。 日常を書く

叔母

↓は私の叔母が40歳の頃 自分でも ”美しいでしょう?!” と自慢していた写真です。 今は もうとっくに80歳を超えています。



私の叔母、 彼女は私の人生の基盤を作ったと言っても過言ではないでしょう! 今はもう 私に会ってもほとんど私の事はわかりません。 しかし 私はどこにいても 彼女は どうしてるかなー・・。 と思わずにはいられません。 

私は 彼女は昔から 自分と言うものを持って生きている人だなーと 思っていました。 最初にそう思ったのが 私が高校生の時。 高校の修学旅行の資金を使って 一人で 岩手から宮崎まで旅をしました。 その時に彼女と会ったとき 「なんと 気さくな 心の通じる オバサンだろう!」と 思ったのです。 あの頃 私が高校生の頃 普通の大人の人たちは ほとんど異次元の人間。 なんとなく全ての大人はバリアーがあり 到底私が心を通わせられるような人はいなかった。 

なのに彼女には そのバリアーが感じられなかったのだ。 不思議な人だ! とさえ思った。 それから 彼女の事に興味が出て 時折 母親に彼女の事を聞くと 母親は私を 嬉しくさせる 彼女に関するストーリーを沢山話してくれた。

その一つの ストーリーをご紹介しましょう。 彼女がまだ結婚する前の若い頃、 その頃は 戦争直後で アメリカ兵等を見たら みんな 恐ろしがって逃げていた頃。 彼女が町に出かけてなかなか 帰ってこなくて 家族中心配して 探し回っていたら 誰かが 「お宅の娘さん アメリカ兵のジープに乗せられて 誘拐されましたよ。」と言う。 

もー 家族じゅー 大騒ぎ! なのに その最中 彼女は(その私の叔母さんは) ヒョッコリ 「ただいまー!」と言って 家に戻って来て 「なんの 騒ぎ?!」と 驚いている。 事情をみんなが話すと 「私はジープでヒッチハイクして帰ってきただけだよ。」と しらけて言うばかり。 
家族中 もー 彼女に腹が立って仕方がなかった。 と 言う事でした。  そんな類の 彼女にとっては 普通の事が 周りを物凄く 苛立たせ 奔走させる事が 沢山あったようです。 でも 本人が 「悪かった」と 思って 「これから気をつけます」という 態度ではないので 彼女は家族から どちらかと言うと敬遠されていた。 

その話を聞いて 私は 自分が高校生の時の彼女と会ったときの感想が納得が行った。 つまり 彼女は本音と建前が ない。 というか もてない。 本音だけで全て行動する。 それが 高校生の私にとって心地よかったのだろう。

もう一つ どうしても 忘れられない事が 私にはある。 ある日 私が 両親の家に泊まっていたときの事。(私は20代後半)。 私自身 子供の頃から なんとブスで 頭も弱いし 特に性格もわるい・・。 と 本気で思っていた。 そして それは 20代になっても 引きずっていた。 

私が出かけるときに 鏡を覗き込み化粧をしていたら 突然「のりこちゃん あなた とてもきれいよー!」と 言う声が飛んできた。 我に帰って その声が飛んできた方を見ると 彼女が 柱に寄りかかり 両手を組んで その組んだ両手が彼女の着物の袖に埋まってた。 彼女はもう一回 私に言い聞かせるように 「あなたは とてもきれいだから 自信を持ちなさい」と キッパリいう。 

突然の事で ビックリしながらも なんか じわじわと 嬉しかった。 彼女は 挨拶もろくにしない人で 結構 人から嫌われる。 心にもない 社交辞令は一切省く。 大人の人間にしては かなり 稀な人間だ。 だからこそ その私に投げかけてくれた 言葉は 私に染みた。 

それ以来 自分に 暗く 重たく垂れ込めていたものが じわじわと 取り除かれ 物凄く軽くなって行くような感じだった。 そして その言葉が それからの私の人生をも 沢山変えてしまったと思う。 色んなところで 心の支えになり 自信もつけた。 今もその 言葉の威力は生きている。 彼女が 私の人生をいつも支えていてくれるような気さえする。 

どうやって お礼をしていいか お礼をいえばいいか そのすべを私は知らない。 というのは 彼女には 私の言えるような 月並みな言葉は通じない。
  1. 2006/12/29(金) 18:58:04|
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許す

自分を選べないのに 自分の生き方は選ばなければ・・・。

人間は 自分が生まれて来る時に 自分のDNAを選ぶ事ができない。 自分の親を選べないんだから・・。 生まれた所の環境も選べない・・。 自分の意志を持って 自分の経済力を持って そこから移動は出来るだろう。 しかし そうなるまで(赤ん坊から 経済的に自立するまで)に 人間形成はほぼ完了していると言ってもいいだろう。

だから 人間の犯した罪は 罪ではあるけど 99%は “仕方のない事”ではないだろうか・・? 生まれ持った人間性全ては 自分が選んだものではないのだから・・。 だから 親を恨み 社会を恨みしても いいのではないだろうか・・。

永山則夫と言う 死刑囚がいた。 彼は結局絞死刑に処せられたが・・。 しかし彼の刑務所の中で書いた手記は膨大だった。 彼の手記は沢山の人の心を揺らがした。 彼自身一人に罪をかぶせて それで社会はいいのだろうか・・? と殆どの人が思ったからこそ あの手記が綴られた本が 売れに売れまくったのだろう。

と言う事は 自分を責める必要は これっぽっちもないのではないだろうか・・? 自分は何も選べないのに・・・ 自分は 神が創って そしてい自分がこの世に生まれて出た瞬間は すでに作られた環境に 神が放り込んだのだから・・・ その中で必死に自分は 自分の本能(これも神がくれたもの)を駆使して生きようとしているだけなのだ。

“フリー・ウィルと言うのが 人間には ある!つまり 神が司る簡易外の ”自分の意志“と言う物を 人間は生まれて持っている。 それで 自分の運命を切り開いて行かなければならないと 言う意味で 神は 人間に ”フリー・ウィル“ と言う物を与えた。

だから 何でも 悪い事を運命とか 神のせいにしてはいけない! と言う事だ・・・。 だから ダメな人間はやはり 自分の力で自分を律しマネージしていかなければいけない・・・。 ホントにそうなのだろうか・・・?

生まれてから 40歳ぐらいまで 私は 上等な人間は自分の努力で 自分の才能を磨き浮上する。 最低の人間は 努力もしないから ドンドン最低になる。 努力もしないから 悪い事もするから その罪を自分で受けてあがなう・・・ と言うのが 世の摂理と思っていた。

しかし 色んな経験 色んな体験から 自分自身で考え、 それを突き詰めて行くと もしかしたら この世は 自分の意志ではどうし様もない事だらけなのでは・・?!という所に行き着いた。

もう 16年も前の話だが・・ 毎日 NHKラジオで “子供のしつけとか 親が児童心理学者に相談する” と言う番組が毎日放送されていた。 その時 1年間 私は ほぼ毎日その番組を聞いていた事がある。

子供と言うのは 生まれつき 本能的に “一生懸命べストを尽くそう” そして “親に誉めてもらって 好かれたい”と言う本能があるのは 児童心理学者が言うには 確からしい。 というと もしかして それって 大人だって そうじゃん! もしかして 犬って その典型? とか 思ってしまった。

と言う事は 人間 生き物全体 ベストをつくそう! と思うのは 本能であるのにもかかわらず そうならないと 言うのは もう それは 環境 つまり 親とか 社会とかのせいであって 100%本人の努力不足のせいではないのだ! と言う結論になる。

では なぜ そんな本能を持っているにもかかわらず すばらしい本能が発揮せずに ひねくれたり 罪を犯したりするのだろうか・・? と言う事になる。 それは つまり 人間の本能は 愛されたい ハッピーでいたいという本能が邪魔されてしまうからだ。

死刑囚の永山則夫は 生まれてからすぐ 親から捨てられ 兄弟みんなして 野良犬のような扱いをされて成長した。 せめて社会が 人間の本能をだけでも カバーしてくれていたら 彼はあんな殺人など犯しはしなかったと思う。 (そんな事はない! と言う反論の方も大勢いるとは思うけど・・・。)

人間 おいしいものを たらふく食べて 暖かく抱いてもらえれば 赤ちゃんだってすくすくと育つ。 大人でも それが 基本的に必要なのではないだろうか・・。 それも それが 毎日 継続しなければならない。 チョットでも その本能を邪魔するような事があれば その毒は 培養増殖し ドンドン体内に蓄積され 精神は犯されてくるのではないだろうか・・?

大体の場合は 何か不幸な事があれば 直接親のせいになる。 しかし そのうち 親だって神様ではないし 人間の子だから・・ と言う事で 今度は 社会のせいになる。 その内 日本社会のせいに出来なくなると 今度は 地球全体が 自分をダメにしていると言う事になる。

そうなったら 今度は 宇宙の単位で考えて来る そうなったら 結果 もうこの世に自分が 生まれて来た事自体が間違いと言う結果しかないから 自殺と言う事になるのだろう。 一番悲しい事である。

クリスチアニティーの基本は 「許す」と言う事だ。 全てを許す事で 全てが肯定できるようになる。 万能の神ですら 人間を創造した時点で 間違いを犯したのかもしれない。 でも 同時に神は 「許す」と言う作業を 人間に強いているから そこで 全てが肯定化して来る。

自分が 周りの人間を 社会を 環境を 全てを許す事で 自分が生かされてくるのだから・・。 

しかしだ!! こっちとら 腹の立つことばかりで 腹を立てるエネルギーで やっと 生きてるっつーのに ここで 全てを許してしまったら やっと 存在している 腹の立つエネルギーですら なくなるのでは・・? そしたら 生きるエネルギーすら なくなるのでは・・? とか 思ってしまう。 自分の人生 もう 腹が立つことだらけで まさに 意地だけで生きてきているっっつーのに・・。 

でも でも・・・。 「許す」と言う事は やはり 愛に満ちた言葉で 暖かく 自分を包んでくれるのは確かかも知れない。

でも その「許す」と言う作業は どこをどうやって 初めていいのやら、とっついていいのやら 腹の立つエネルギーでしか 生きてこれなかった 私にはわからない・・。 これからの大きな課題だ・・。 意地でしか生きてこれなかった私は もう  歳をとるにつれ その意地を張るエネルギーは そろそろ尽き果ててきている。 

腹の立つエネルギーと言うのは 限りがあると言うのを最近感じ始めた。 それって 常にガソリンスタンドに言って 燃料を入れないといけない仕組みだ。 しかし 「許す」と言う 暖かい そして 愛に包まれた事で発する エネルギーは コンコンと永遠に湧き出る泉のような 匂いがする。
  1. 2006/12/29(金) 18:37:34|
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受身

向こうから やってくる物に対して どうやって対処するか? どうやって 勝つか? どうやって上手くやるか? これが 人生の 課題になる。

学校の時は 黙って 授業を聞くのが 一番とされ 質問が あっても 先生の喜ぶ質問でないと 質問はやめた方がいい。 社会に入っても 自分の置かれている場所をいうのを 自分自身で見極めて そこで いかに 自分が良く評価されるかで 人生の成功かどうかが 定められる。

女性は もっと 受け身でなくては ならないと思う。 ようするに 「気が利く女」と言うのが 最高の女として 評価されるのが 一般的日本社会の評価基準だ。

常に男のサポーターとしての 女が 最高とみなされるので たとえ社会に出ても 男の仕事がしやすいように 立ち振る舞う女が認められるし 喜ばれる。 女が下手に 勝手に動いて 他の者がついてくるような イニシアティブを取ろうものなら 男から喧喧囂囂の非難にあう。 女は最低と思われるので かなり気を付けなければ ならない…。

私が 22歳の時から ドップリと西洋社会・西洋人の中に入った時には かなり勝手が違って チョットうろたえた。 しかし 協調性とか 男の補佐・サポートとかを 気にしなくてもいいのだと 気がついた時は 目に見えない物から 解き放たれたような 自由な気分にもなった。

↓の写真は 私の学校のクラスの連中



その代わり 自分で考え 決断し そして 行動しない限り 何も始まらないのにも気付いた。 でも 私にとっては それは得意技であり そうしたいと言う欲求不満のまま 日本社会にいたので ある種の快感でもあった。

では なぜ 自分が快感に感じたのだろうか・・? 自分が欧米社会に入って10年ぐらいしてから 自分の事を分析してみた。 

自分は 生まれて 3歳の頃にすでに 母親は何年もの入院生活のため 身近にいなくて 母親代わりの人間もいなかった。 身近にいるのは 2才年下の妹だけで それで 10歳になるまで いや それ以降も もう 1人で何でも 考えて 判断して やって行く と言うのが 自分の生活形式になっていた。

私の生活は もう 100% 自分自身で 行動するしか方法はなかった。 それに100% 私を頼り切った 妹すら 私は抱え込んでいた。 妹と私の関係の基盤は その 二人の幼少時代にガッチリと出来てしまったのを お互いに50歳を越した今でも感じる。

私が10歳を過ぎて 突然 母親が 入院生活から 我が家に戻って来て 母親顔をして現れても それは もう 見も知らない独裁者が突然 私と妹の前に現れて 自分のやり方を強要しているとしか感じられなかったのだ…。 自分では 自分自身の位置は すでに確固として確立されてしまっている 自分の生きる哲学とも言える物が 忽然と存在するのに 保護者とか 指導者とか言う物が 突然出現しても それは もう とんでもない災害にしか感じなかったのを思い出す。

母親にしては 長年母親らしい事もできなかったので 娘達にこれもあれもと 言いたい事が あふれてきたのだろうが それは 我々 姉妹にとっては本当に迷惑な話だったのだ。

もう 3つ子の魂百までとは 本当にこの事と言うしかない。 こう言う異常環境で育った私には 日本の受け身の教育ですら かなり辛く感じたのを思い出す。 今思えば 自己確立してしまった事が 日本の完全受け身の教育に当てはまらず 反発感しかなかったという事になる。

何をしても 不満しか 溜まらず 先生・親は 独裁者以外の何物でもなかった。 全ての物に反発を感じながら やっと自分が 23歳の時に 日本を脱出した。  そして ロンドンにたどり着いた時は 最初の数ヶ月はおろおろするしか 脳はなかったけど… その後 肝が据わったトタン 非常に楽な環境であり ようやく そして とうとう! 私は自分の舞台に立った!と 言う実感があった。

まるで 私は 10歳で 独裁者にねじ込まれてから 23歳になるまで 刑務所に入っていたような気持ちだった。 ロンドンで 自分の足で 歩き出した時 これで やっと 刑務所から 出て 自由になったと思った。

例えば・・・。 服は 何を着ようと 気にする事はない…。 日本にいる時は 回りがジロジロ見る、 上から下まで 舐めるように 白めで 見られる事が たびたびあって 自分が罪人のような気分にさせられた。 

しかし 海外に出た瞬間それが なくなり 何を着ても 誰もジロジロみない! つまり 自分の美意識は 自己満足であって 他人は それについて干渉もしない。 本人がよければ それでよいのだ・・・。 他人に迷惑をかけたり 傷つける訳でもないのだから…。だから 自分が 着たい服を何でも着れると思っただけでとても嬉しかった。 

Londonにいる時 ある日 温かい ウールのチェックのひざ掛けを見つけて それをポンチョに作り変えたのを30年後の今でもよーく憶えている。

モヘヤっぽい ウールの厚めの織り生地だったので 寒いロンドンの冬は すっぽりとそれをかぶり 温かくて幸せな気分だった。 真夏は いつもは 日本の夏に比べると結構涼しい しかし その夏のロンドンは 異常気象で 連日30度を越す猛暑だったのを思い出す。

沢山の若者が トラガルファー・スクエア−の噴水の泉に 飛び込み 水浴びをして 猛暑から逃避している様子を 今でも 思い出す。 

そんな時 小さなハギレを見つけた! とても素敵な 色合いデザインで まるで手書きのような パターンが描いてあった布を安いお金で買い 手縫いで胸当てを作り それに合う色の紐を背中一杯にバッテンで結び タンクトップを作った。 それを見た イギリス人の友人達が みんな 会う度に誉めてくれて 「私も欲しい! 作って〜!」 言われた。

そのタンクトップに合う色の布を又 買って来て スカートも 手縫いした。 その100%自分のデザインの服装で Londonの街を歩くのは とても気持ちのいい物だった。 会う人毎に 私の奇抜なデザインを褒めまくった。 あの服装で日本の街を歩いたら 多分 上半身殆ど裸の私は 白い目で 見られるのが オチだったと思う。 

レースのカーテンで ロング・サンドレスも手縫いをした。 その時は この上ない 自由な服装を パーティーだのお出かけだので楽しめた。

しかし 2年後帰国の際 それらの服は どれを取っても 日本で到底 着れる物は一つもなかった。 1つ1つ 二分の魂を込めて デザインして 手縫いされた それらのドレスが 全部破棄処分しか 行き場はなかった。

日本社会以外であれば 着るもの一つ取っても 自分の思うどうりに考え行動する事が許される。 誰も何も言わない。 

私が ロンドンでやったバイトは 普通の人の家の掃除をする事だった。 自分で コンビニの店の 掲示板とか 町の掲示板とかに 「お掃除します!」と言う紙を貼りにいった。 自分の宣伝文句も自分で考える。

自分は 掃除が 上手いし・的確にやるし・ 早い だから 他の人よりも沢山お金を貰う権利がある と言うのも だんだん気付いてきた。 なので ある日 自分は その交渉を 雇い主にする事に決めた。

他の人が2時間でやる掃除を 自分は1時間でやるので 普通1時間の時給の分を 私には倍欲しいと 持ち込む事に決めたのだ。 でも 最初から そう言っても 信じてもらえないので まずは 数週間やってみて それで 雇う方が納得が行ったら 倍の時給を払って貰う。 もし雇う方が 私の仕事に対して 納得がいかなかったら 私は あたなの家の掃除はしません、と 言いきったのだ。

その方法で 成功しなかった事は一回もなかった。 掃除をはじめて 次の週からは 人の倍の時給を貰う事に成功した。 バッキンガムパレスのすぐ近くにある 超高級ホテルでのお掃除のバイトの際 「自分は ベビーシッターもやるよ!」 と言う自己宣伝をしたら 客からのベビーシッターの要請があれば 私がいつも出かけて行って その仕事を引き受けた。 

そのホテルに泊まる客層は もう トンでもない世界の中でも大金持ちに当たる人間だけが泊まるような所だったので・・ そう言った類の客は自分の赤ちゃんとかを 他人に委ねると言う事で 私に ホテルのベビーシッターの報酬以外に 法外なティップをはずむのが常だった。

↓今から 32年前の私。 Londonで 主にお掃除とベビーシッターをしながら 生き長らえていた時代。




そんなやり方で 自己主張をする事で 自分の生活範囲はドンドン膨らんで行った。 日本ではありえない話しだと思う。 自己中心的な生意気な事を言ったら ましてや 女が そんな事をしたら まず嫌われてお終いだろう。

しかし 欧米では それが 許されるし 能力があれば 素直にそれを認め 評価して それが よければ それに見合った報酬を出すというのはもう 常識であり 基本になっている。 でも 日本にいて 受身にだけなり 誰にも刃向かわず 黙って 上からの指示通りに動いていれば 何も起こらない。 例え自分に色んな能力があっても それがどんなに優れていても そこには 高い評価もないし、 何も始まらない。

ロンドンから 帰り 再度日本脱出をし 海外で生活をすべく そ 資金稼ぎの職を得た時は やはり外資系の 会社でないとならないと思った。 自分が自分の能力に合った評価はされるべきであろうし 自分からの請求もするチャンスがなくてはならない。

ロンドンでの お掃除の仕事の報酬を倍にした 自分のやり方は 私が 日本に戻ってから 就職した外資系の会社でも実施した。 そこはアメリカの会社で 年一度の査定で 報酬が決まった。 

その時 私は 日本企業の 主婦で 小さい子供を抱えた女の稼ぐ物とは桁の違う 報酬を貰った。

日本人は 与えられた仕事を きっちりと正確に敏速に遂行する能力には ものすごく優れているが 何も無いところから 何かを作り出す仕事というのは とても苦手だと思う。

イニシアティブを取る人間も少ない。 日本社会には 知識人間・忠実人間を作り出す教育にはとてもたけていると思うが ユニークな創造的な 能動的な人間は 日本社会には生きにくく そんな人間は ドンドン海外に流出しているとよく聞く。 

日本から転勤で海外に行く家族の子供は すんなりと海外の小学校・中学校に溶け込む事ができる。 しかし反対に帰国子女は 日本社会には復帰できない。 両親が日本に戻っても 子供は日本に溶け込めず 又海外に戻ったりするとよく聞く。

受身の人間ではない 自分で考えて、判断し 行動できる 子供を育てるのは とても大切な事のような気がする・・・。
  1. 2006/12/29(金) 18:14:45|
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